最近暖かくなってきたからか、無性に外へ出たくなって家からすぐ近くにある山を歩いている。

2月の個人的な解放を機に、フォーカスするものを仕事というカテゴライズされたものから、人生、自分という全体そのものに変えた。いや、正確には自然と変わっていった。
わたしは確かに今日もただ生きている。
そんな風に自分を捉えられたら、気の向くままに動くこと一つ一つが愛おしくなった。

仙元山
葉山の山の醍醐味はこの景色だけではない。

この場所は海と同様、生活圏内にあるにも関わらず手付かずの自然をそのまま見せてくれるところが何よりの魅力で、そして様々なルートを選択できる。
山を歩いているとそれはまるで人生の縮小ではないかともの思いにふけりながら歩いてしまう。

散々登ってきた挙句に頂上と思しき場所を目の前にしながらそこに向かって下り道に臨むのは、俯瞰してみれば進んでいるのに、先が見えていない自分の渦中の視点では後退しているように思う独特の感覚を思い出す。
これまでコツコツゼエゼエ言いながら登ってきた頑張りはなんだったんだと、さっきまで確かにその道を楽しんでいたのにゴールを意識すると途端に全てがそこに費やすための努力、労力(しかもそれを無駄と表現してしまうような)に変わってしまう。
ただ、思いっきり下ってまた思いっきり登ったのちにたどり着く頂上と言う名の場所はもはやそれが頂上なのかどうなのかわからない感覚になるのがこの山の面白いところなのだけど。
一番高いところにいるのに、それがわからない。
それはまるで人生において「成功」という実態のないものを掴もうとする感覚に似ていると感じる。

ふと。
人間の本当の本当は一体何を目指しているんだろう。
そんな問いが浮かぶのと同時に、そもそも目指すという前提があることがその問いの答え、本当に欲しいものを見失わせることに気づく。
もし、幸せになりたい幸せでありたいという願い、ゴールと呼べるものがあるのなら、幸せとは目指すものそのものではないと言える。山で例えるならそれは頂上なのかもしれないが実際にたどり着くとわかる、山の頂上は特別な場所でもなんでもなく、ただの山の中の一つの場所だということが。
そして下ろうが平坦だろうが、上りだろうが、その景色や道もまたそれと全く同じであり、それらそれぞれの変化展開があるからこそ山を歩くことは面白いし、その感覚が充足感すなわち幸せそのものだと感じるのだと思う。
実は昨日目の前が真っ白になるような衝撃的なことが起きた。
そんな未来は1ミリも想像していなかったような今はまだ悲しいことだ。
だけどわたしは今日も確かに人生という山を歩いていて、そこを通らない選択はしない。あらゆる道を堪能できる感度さえあれば全てが素晴らしい旅となるし、結局は自分の捉え方、感じ方でどんな道であっても関係がない。
そんなことを衝撃の事実の前に山は教えてくれてたんだと思うし、何度も何度もわたしは人生とは何かを巡らせるために山に足を運んで何も目指さずただ淡々と歩く。目の前に来る景色、道をなんのジャッジも入れずにただただ愛でていたいだけなのだ。
