明日もし人生が終わるとしたら。

私はここに文章を書き続けなかったことを心底後悔する、そんなことを強く思っている。

思っているという表現なのはここ最近ずっとそれについて葛藤しているからで、その問いに対して頭で真剣に考えて出した答えというより、体感覚として書けていない自分にもどかしさとそれでも書けない後ろめたさがもうずっとあったからである。

今年に入ってから、ポップアップに挑戦したりそれに付随してお店を発信することを強く意識したりと随分とこれまでの自分の枠と思しきものを超えてきた。舞台はインスタ、SNS。もちろんそこで文章も書いてきたし、このブログ以上に風通しがよく人目に触れる場所なのでリアクションだったりレスポンスも有難いことに頂け単純に舞い上がることは多々。だけど、過去の自分の制限を超えたとき、自分というものの輪郭がぼやけた。それは挑戦したからこそ得られる新たな感覚だと思っていたけれど、単純に私は大切なものをスコンと置いてけぼりにして進んでいたようだ。

物質化することは私がこの社会でやりたいことの抽象度一番高めの表現である。

それは”もの”を扱うこともそうだし、そのものや作り手、はたまたそこに纏う空気感すらも言語化や自分なりの像にしてしまうことだったりする。そしてもっと感覚的なことでいうと私はそれを蓄積したいのである。

自分の内側にあるものを丁寧に緻密に生み出したとき、それそのものを一過性の存在にたらしめたくない。この感覚をもうずっと私は大切にしていたのに、やるぞ!と走り出した時には流動の世界だけにどっぷり夢中になっていた。SNSはどうやら私にとって水物であり手元をするすると抜けていくような感触がしてしまう。

感覚感情は自分の魂の羅針盤である。自分の中で新たなことをやれどもやれども満たし切らないこの感覚に向き合うたびに、もう降参するように自分の核にあるものはきっと変わらないのだと腹落ちした。そして核じゃないものを切り捨てるのではなく円を描くコンパスのように自分の深いところにあるものを軸にもっともっとあらゆるものを取り入れて輪を自由に広げていけばいいのだとも。単純に楽しい嬉しい悲しい、などの感情は刹那的であるからこそ価値があり人生に彩りを与えてくれるからだ。

私はこの空間を大切にしたい。このブログに息を吹き込み続けたい。軸であり核であるそれにしっかり心を向けた時色んなものを自在に扱え満足できるのだと勝手に解釈して、ただひたすらにここに向き合い物質化の再開を果たす。

自分の本当に深いところを満たしながら生きていくこと、それこそが私にとっての本質的な生き方であり、それでいてもうこれでいいのだと過去のように小さく生きるのではなく、そこから自由にまだ見ぬ自分へと軽快に円を描いて枠を超えていくのだ。

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