ここ半年、ゆっくりと読み進めていた本がある。

百田尚樹さんの書く文章でなら歴史を読みたいと思って衝動で手にした本。

現代の視点でしか生きられていない自分をもっと俯瞰したくて違う時代に生まれていたらどんな生き方を選ぶのだろうか(それともそんな選択肢すら与えられないのかもしれない)、当たり前に思えてしまう自分の小さな世界を懐疑したくてそれはそれはゆっくりと読み始めた。

読み終えた今、大きな所感をひとつ述べるとしたら、人間は身を守るため、家族、そして土地、国を守るために戦う。だからこそ今に自分の命があるのだし、それは善悪を超えた生物としての生きる術である。(ただあまりに人間は賢すぎるし自我が強い)

戦争は過去のもの、情報が遅れている人たちがするものだとものすごく偏った見方で身勝手に思って育ったけれど、全くの見当違いだったのかもしれない。どの時代や世界にも進化の過程に当たり前にそれがある。

そして現代にも戦争というものがそう遠くない世界線で勃発しまくっている。

リアルな映像を見ると怖気がして直視できないしとても悲しくて痛ましいことだが、実際にこの世界にはそれがある。そしてそれは善と悪の対立でもなんでもなく、それぞれの全く異なる正義と思しきものがぶつかり合っている。複雑に絡み合いすぎていてこの世界を私はただ「それがあることを知っている」そんな奇妙な感覚で見つめている。

良いことばかりに目を向けること、それが難しい世の中で、それでも自分のリアルを必死でいいから大切にしていかなくてはならないと強く思う。誰が悪い、何が正しい、そんな一辺倒なものの答えはそもそも存在しない。あまりにも物事は混沌としているからこそ問題にフォーカスをするよりもまずは自分はどうしたいのか生きたいのか、主体性をもってそれを明確にし貫くことが何より個として必要なことだと私は考える。それと同時に明日は我が身かもしれない、だけどどんなことが起きても自分の意識を研ぎ澄ませ、感情が爆発しようと信じられないことが起きようと、どんなこともこの世界で自分が見たかった経験したかったのだと、大きな視点で物事を捉えていけたら弱き存在としての強さだなと、文章だけだととても綺麗事だな。(でもこれが今の私のありのままの感覚)

着地点が見当たらないので歩先をずらすが、画家のゴッホと画商のその弟、そしてそこに関わった日本人画商2人のフィクション小説、先日旅先で歴史の本だけだとつまらないなとこれまた衝動で買った本。この世界史の重要なひとかけらを日本史と同時に読むのがたまらなく面白い感覚になることに私はとても歓喜した。並行読みを通して思いがけず自分が欲しかった俯瞰という感覚を覚えたのだが、これはきっと神のそれなのだと感じる、そんなことを思いながら随分と読むことに熱中した。

ゴッホの生涯を感じると不思議と安堵し親しみを覚える自分がいる。人間とはこうもぐちゃぐちゃで生きづらいもの、だけど生きづらいというのは勝手に人が生きやすいという謎の感覚の定義付けをしたからこそ存在するもので、、うまく表現できないけれど人間とはこれほどまでに複雑なのだ。ただただ混沌と複雑なままで生涯を終えた人間に私は心からの敬意を覚える。何も成せなくても、成せないどころかなんのために生まれたのだろうとわからないまま生涯を終えることに、だけどもがき続けた尊い存在に、またこれも不思議と「それがあることを知っている」という感覚になる。それが良いとか悪いとか、そんな人間の表面的な判断などいらなくてただひたすらにそのことを感じているのだと思う。

どんな事象もただ存在している。それそのものに感情がアンコントロールになることも勿論あるけれど、それすらもただ存在しているだけのこと。ひどい世の中を容認したいわけではない、しかし全体としての答えがひとつでないことに頭を抱え身をすくめ続けることよりも、個としてより一層生きるときに強い意志を持って流れるという感覚を大切に生きていきたいと、ちっぽけな私は思っただけという話。

今のこのどこにも着地しないけれど、ただ存在している自分の感覚を形にしたくて。

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