よし、休もう。

そう決めた7月の下旬のこと、私は毎日原因不明のひどい頭痛に襲われていた。

想定外の決断を下すまで、ずいぶんと悩んだ。これまでの積み重ねをもっと濃くもっと大きくしたいのに、今走らなくてどうするのだと、止まる選択肢などその時の私の中には微塵もなくて。それくらい心は前を向いていてやる気に満ちていて活動的だったタイミングのことだ。

今の私の状況といえば、長男は引き続き入院しており平日の面会は続いていて、それに加えて夫は1年にも及ぶ昇格試験に挑んでいる。私はそのサポートもしながら自分のお店も大きな変化の時を迎えていた。一番身近な存在である家族がそれぞれ自分の難題に立ち向かっているそんな今だからこそ私もいつも以上に頑張れたしこれでいい、なんなら今こそ自分自身が飛躍する時だ、そんな野心的な気持ちさえあったほどだ。

そんな折に体調不良の強制終了が起きるなんて、私の生き方の何が間違っているのだろう、こんなにも情熱を持って目の前のことに取り組めているし手応えすら感じられていた時だったからこそ、起きる意味が全くわからなくて悔しさや怒りを強く覚えた。もどかしかった。そしてしばらくそのサインを無視して無理矢理日々をこなし続けた。

だけど日に日に増す強い痛みといろんな人からの目が醒めるような声かけのおかげもあり、1ヶ月だけ店頭での営業をやめようと決めた。その途端、私の中にあった何か大きくて黒くて固い「こだわり、頑固、プライド、執着」と言えるようなものが、優しく溶けた。その感覚を覚えた瞬間にずいぶんと走り続けて疲れたなあと素直に涙がこぼれた。

店頭の営業を休むと時間に縛られなくなったことが何より嬉しかったし、軽さを感じた。心に従っているという前提での選択肢を持たない時間の進め方が定着してきていたつもりだったけど(コツコツ営業を重ねたいという望みも強かった)、やはりそれはいつか惰性を含み、想像を超えた新たな自分の可能性を失っていたように思う。

瞬間瞬間で自分に問いかけることは大切だ。今何がしたい?どこか行きたい?何もしたくない?本屋にでも行ってみる?頭の自由さがあってこそ直感というものは巡ってくるのだと信じていて、物理的にも時間と心に余白があるとなおそれは容易いことのように思う。私には明らかにそれが欠けていた。

やり方云々よりも感性をいちばんに大切にすること。

これは今回休んだ中で自分にとって一番大きな気づきだった。人それぞれ今世の役割や目的があると信じて疑わないのだが、私の場合「感性」が第一にあってそれを縮小させるものは、はたから見たら正しいことのように思えても自分にとって正解ではないのかもしれない。そんなことを思って自分の向いていた方向が少しおかしなことになっているとハッとした。

結局自分はどんな人生を送りたいかって話なのだけど、道が先へ進んでいくと気づかぬ間に型にハマったもの、社会的に賞賛されることを目指していたりする。物事をうまくいかせるにはそれが正しいと思ってしまいがちだからだ。だけどそこじゃないところに自分の答えだったり求めている世界があると今回休息の中で自分に問い続け確かに心が動いたことで気づけた時、ようやく体調不良のメッセージが解けた気がした。わたしは感性の中に生きていたい。それと同時に頭の痛みはなくなり随分元気になった。

9月からまた行動は元に戻ったとしても、頭の中が違う自分でリスタートできることで生み出すものがクリアになる気がしていて今私はとても楽しみだ。一旦リセットとまではいかないけれど、今回自分の中心に立ち戻ったことはすごく必然のことのように感じている。

自分にとって偶発的に起こることには必ず意味があって、頭で抗わないこと、そして常にどうなってもきっと大丈夫という自分への信頼は常に携えておきたい。次の一歩、そして今後進み続けて先の100歩目も、より自分の心と魂に忠実な一歩でありますように。今度こそ、という自戒を込めて。

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