美しいと自分が感じるものを見ることが

たまらなく好き、心が震える、高揚する、心が躍る。

これはWEL’Lを始めてから自分の中で言語化できたこと。

わたしの核にあるものはこれだ。

リビングにコーヒーテーブルを新たに迎えた。

もし仕事という概念がなくなっても

わたしはこうやって自分の頭の中にある

こんなのが見たい、をただただひたすら形にしてそれを動かしたり並べたりして

ドンピシャのドンの音がするまで時間を忘れて没頭するだろう。

そしてドンの音とともに、最高な心の震えを体感する。

(自分のドンの音がするwもの同士のコラボレーションは気絶をする)

やることはたくさんあったのに、わざわざお店までアクセサリーを取りに行ってディスプレイをして写真に収めるというもはやどうでもいいすぎることに本気を出している自分に冷静に気付いた時に

これなんだよな〜わたしがただただやりたいことって。

人生これで以上マルだったりする。

結局他人からのサムシングリアクションはどっちでも良かったりする。

(嬉しいからね、こっちを自分の喜びと勘違いしがちだったんだけど、本当の本当はそれがなくても満たされるのね。でもあったらもっともっと嬉しいんだよね。そうやって考えると他人のそれのネガティブバージョンも、自分の満たされ感にはなんの問題もないんだよね。だから臆することなくなんだって表現しようって思うんだよね。)

そんな自分だけの世界を色濃くすることを

死ぬまで、より純度をあげて

淡々と形にしていく。

新たに入荷したucacoceramicsのこのおめかしシリーズも

売るためというよりも(いや、売ってるんだけども)

こうやって無造作に重ねてディスプレイをして他でもないわたしが眺めたい、そして美しいと心を震わせたいという

目的はこれでしかないんだけど

この情熱はとてつもなくわたしを突き動かすのだ。

想像したよりも回数を重ねた気まぐれお花屋さんも

ただただこの景色が見たくて

形になるたびに涙が出そうなくらい高揚して

でもそれは形を変えて、たとえ売らなくとも

同じ情熱量と行動量で、ただ見るためすなわちディスプレイをするためだけの

少量のお花を仕入れただけであっても

自分の中で生まれる高揚感は変わらない。

(新しい景色を見れた時は、高揚感の深さと大きさは確実に大きくなるけど)

表面的にやってることは違えど

自分の核にあるものは本当に変わらない。

それは高揚感、心が躍る感覚となってこれなんだと自分自身に教えてくれる。

だからわたしはそんな感覚をたくさんたくさん持って生きていきたい。

どうなるか、よりもどう在るか

この表現のわたしの中での真髄は

この美しい感覚をたくさん持ってただ存在している

わたしは何者でなくとも

ただただこう存在していることに満足している

感覚を持てること、感じられることが何よりも尊いなって思うよ。