長男が入院して1年と8ヶ月が経った。

ペルテス病といって右脚の大腿骨が壊死している病気に気づいたのは彼が幼稚園の年長の終わりの時だった事を、遠い昔のことに思う。彼は身体も心も随分大きく立派に成長した。

この病気の特性上、手術はせずに自然に骨が再生するのを待つという治療方法なのだが、その間歩くことは禁止。コロナの名残もあり未だに院内ではマスク生活だし、食事はカーテンを閉めて一人で食べる。健常と呼ばれる子たちと比較すると随分と不自由で可哀想だなと思うことは多い。ただ、強い痛みや治らないという絶望感はないわけで、これを病気と呼んで良いのだろうかと甘く思うほど大きな病院に毎日通う中で重い運命を持つ子たちとその家族の方々と自分たちを比較しては否応なしに謙虚になる。

そんなことを言いながらも長男の病気の治りのスピードは目に余るほど遅いようで、同じ病気で後から入院したお友達たちがどんどん歩き始めているここ最近のこと。努力してもどうにもならないことで自分が置いていかれる感覚を持つ少年の心は葛藤と絶望に満ちている。大人になれば、人より辛い経験は必ず今後自分を奮い立たせ前へ進む大きな糧になると私自身は困難と思しきものをくぐり抜けてきたからこそわかるのだが、経験したこともない子にその答えを言ったところで何にも響かない。

ある日私が長男のベッドに何気なく寝そべった時のこと。なんだかこれが彼の日々の景色なんだなあと、年季の入った天井にカーテンレールがひしめいている、そんな光景をぼーっと眺めながら、突然突き刺さるような感情とともに過去の記憶が蘇る。難病でさらに交通事故をして10年近く入院をしていた今は亡き母方の祖母からの電話でのやり取り、私が小学生の時の話だ。

「ばあちゃんは早く自分の家に帰りたいのに、なんで毎日毎日こんな天井ばかり見んにゃいけんのん」

怒りのままになぜか小学生の私にそんなことを吐き出す祖母に何も答えられなくて受話器を持って立ち尽くしていた当時の自分と不意に繋がり涙が溢れた。彼女の性格が独特だったこともあるしオチどころのない祖母からの電話は本当に苦痛だったけれど、それ以上に祖母の現実はもっともっと苦痛だっただろう。あのとき「ばあちゃんは辛いのによく頑張ってるね」って励ましの言葉を言ってあげられなかったのは、「こうしたらもっと楽しくなるんじゃない?」って光を見つけてあげられなかったのは、単純に自分が同じくらい辛いことを経験したことがなかったからだ。

あれから20年以上もの時が経った今の私は違う。掛ける言葉もこの経験がどれだけ彼にとって意味のあることかも良くわかる。泣き言を言ってきた時にはこれ見よがしに答えを導き出せる。だけどそれをしたところで私は気持ち良くなるかもしれないが、彼にとっては実は必要のないことだとも今はわかる。長期入院、そして禁止事項の多い車椅子生活、この経験がどれだけ彼にとって人生の素敵なギフトだとポジティブ変換できたとしても、今の彼がしている経験の中で何より大切だと思うことは湧き上がる純粋な感情を一緒に感じて共にこの経験に向き合うこと。子供のそのままの正直な気持ちを同じ視点で私も経験し尊重したい。

いつかこの日々が彼にとって必ず光になると確信しながらも、困難を困難のままにしていいじゃない。この生活をノーマルに感じてしまっている今、一周回ってそんなことを思う。

今、経験していることを通して、今、感じられるものを丁寧に受け入れて。その積み重ねの中でいつか振り返った時きっとそれは大きくて揺るがない力になる、そう私は信じて見守る。

ゆっくりゆっくり、自分のペースを他でもない自分が信頼していいのだ。