私は愚直にやってきた。

この一年の自分を振り返った時にでてくる一文はこれだ。

ただひたすらに、まっすぐに。自分がその時に抱えているもの、目の前に飛び込んできたもの、そしてなにより私の周りにいてくれる人たちに対して自分がその瞬間できることを真剣にやった、と思う。その多くは何かしらの役割の中にいた。

しかし役割の中にばかり生きると自分を見失いがちになる、だからこそなのか私はこの一年とりわけ自然の中に身を置くことが多かった。それは意図的というより無性に身体なのか魂がそこへ行きたいと渇望しているようで、「あ、行こ」と思い立てば無条件に海だったり山だったりにすぐさま移動した。

海の方が近いので数えきれないほど行った。そこでは決まって深い瞑想をする。椅子をなるべく波打ち際ギリギリの場所に置きうっすら目を瞑る、次の瞬間グワーーーーっと波の音に自分自身を巻き込んでいく不可抗力的な感覚になり我を忘れた。

身体の境界線が溶けて頭の中もだらーんとなって私は自然の一部でちっぽけな存在、それは世界にとって大したことのない存在で、誰の記憶にも何にも影響しない。だってほらあそこの波と、向こうの波とどっちがどうかだなんて私にとっても誰にとってもどうでもいいことでしょう。それと私の存在も同じように、全体の名もなき一部であるからこそ私は自由であり無限であり軽やかなのである。そんなことを思ってはとても気楽になって深いところからじんわりと活力が湧いた。そしてまた母親だったり店主だったり妻(夫の仕事のサポーターの意も含む)の役割という名の衣装を纏うことができた。

大したことない、という感覚はとりわけ私にとってこの一年の救いだった。

目の前に問題があったとしてもそれもまた取るに足らないほどに大したことがない。病気であったり金銭的なこと、人間関係だって何だって同じだ。問題を問題たらしめているのは自分の思考とそれを助長するかのような世論を信じてしまうことだけ。今年も決して私の人生は平穏ではなかったからこそ自分へのメッセージとして強く感じたのは、私はそこからでしか学べないこと体感できないこと、気づけないことが山ほどあるのだから、その経験は本当はとてもとても有難いことでしょう?ということだ。

物事を勝手に歪ませているのは我々人間の思考だけであり、元々どんなものも丸かったことを思い出せたなら、どんな事もきっと愛でしかできていないと気づけるだろう。

総括が愚直、の意味になっているかは少し謎だが、これはやらなくてこれは自分の手にしてって頭で選り好みして物事に向き合ってきたわけでは一切ないのでやはり愚直なのだと言い切りたい。目の前にどさっとやってきたものを丸ごと私なりに丁寧に向き合ってやってきたと自負したいのである。

最後に、この一年の自分の感覚をさらに人生という大きな括りの中で俯瞰してみると、段々と要らぬ執着がなくなりつつあると感じる。こうであらねばならない、これだけは手に入れたい、これは向き合いたくない、そんなんじゃなくてどんな物事も丸っと面白がって受け入れて向き合ってこれが私の人生よ、と誇りを持って生きていけるようになっている気がしている。考えすぎずにやるという愚直という在り方は引き続き大切にしていきたい。

そんな感じで2024の幕をゆっくりと下ろしたいと思う。目一杯の感謝を込めて。