今月も今日でおわり。
そして自宅から徒歩1分の場所にあるスタバが閉店した。
お風呂上がりに閉店時間にまだ間に合うと
長男と2人で最後のコーヒーを買いに行く。
(悲しい悲しい悲しいと言っていたら、じゃ、引っ越そっかと斬新な慰め方をしてくる息子)
どこにでもあるスタバ、たかがスタバ
なんだけど
なぜこんなにも悲しくて喪失感があるのか
ずっと考えてた。
長男を産んですぐ身寄りもない右も左も分からない葉山に引っ越してきて
このスタバがわたしにとっての唯一の居場所でありオアシスだったから?
この地でたくさんのご縁があって、そしてここでいろんな人と交わることができて思い出が詰まった場所だから?
それももちろんある。
いや、普通にめちゃくちゃこれ。
だけどそれだけじゃなかったんだ。
それはわたしにとってのスタバとは人生の不安や葛藤、そして冒険をともにしてきた場所でしかなくて
それは一言で言うとその時の感情を鮮明に思い出させる場所なんだ。
世界中に安定したクオリティとサービスでどこにでもあって
どこにでもあるからこそ
世界中のいろんな場所を仕事で、そして旅人として訪れていたわたしにとってはたくさんの思い出がその時の感情とともに鮮明にある。
仕事で月の半分は海外にいた20代、
時差でうまく眠れなくていつも泣いて朝を迎えていた西海岸ステイ(一番嫌いだったよ)
ほとんど滞在するホテルにスタバが併設されていてショーアップする直前の朝、不安定な状態で行っていたよね。
当時を思い出すと身震いするほどで
時差がなくともいつも仕事においては緊張と恐怖と不安を抱えていたわたし。
そんな自分をスタバを経由して思い出すんだ。
(これはバンクーバーのスタバ)
プライベートで旅をするときも割と安全でない旅の仕方ばかりをしていて
リラックス、リフレッシュというより、挑戦!みたいなノリで旅をしていたから
その時の高揚感と不安な気持ちが錯綜している感覚を呼び覚ます。
結局わたしが失ったのは
コーヒーを飲む場所という物理的なものなのではなく
自分の身近にあった
今はなき自分らしさを思い出せる場所をなくしてしまった感覚だったんだ。
葉山に引っ越して母親になって自由だったものが、良くも悪くもそうでなくなった自分に
1分歩いただけで世界中を旅をしているような感覚をくれていた
今日閉店した近所のスタバ。
こうやって自分が失ったものの正体がわかって
ただ、本当は何も失っていなくて
その正体が世界中を旅している感覚だとわかった今、これから先もいつだってその感覚に浸ることもできるし
わたしは旅にだって出られる。
結局今わたしは身軽さだったり物理的な自由に憧れを持ってるのよね。
スタバを通しての記憶のほとんどが不安でしかないのに
不安の先にある自分の信念、在り方が自分の中に眠っている熱いものを突き動かす。
人生はやっぱりうまくできてる。
ちゃんと展開されてくよね。
もっと動きたいんだよ、わたしは。
世界中を思うままに飛び回りたいんだよ。
最後の最後までいろんな気づきをくれた葉山海岸通りのスターバックス(最後だけ正式名称)に心から感謝です。
(3年前のハロウィンも今日のハロウィンも同じコスチュームでスタバにてご満悦の息子)