ちょうど去年の今頃
自分の中でやりたいこととできないことが混沌としていて溜息をついていた時
それはこの広い社会の中でことを起こそうとするから難しいと思ってしまったり、足がすくんでしまうのだと気づいた瞬間があった。
自分の才を誰かのために使いたいと思った時
個を超えてこの世界に存在したいと願った時
一番最初にできることは考え抜いたビジネスプランを世界に向けて発信することではなく
その本質をもぎ取って、今目の前にいる人に見返りを求めず純粋に自分がしたいからそうするという意思でやってみること
やりたいということの本質はそれなんじゃないかと思った。
当時のわたしはサービスとして提供していた「本質に触れるヒュッゲ」をもっとコミュニティとしてもやってみたくて、不思議とそのタイミングでいろんな人からオンラインサロンを勧められて、自分の中でそれかも…?と考えては立ち止まる繰り返しをしていた。
しかしどんなに考えても自分の心のど真ん中を射抜けなくて、ただ向き合えば向き合うほどに自分の作りたい世界はそういった本質だけで存在できる世界という価値観ははっきりしていて、そういうものを実体にしてみたいという気持ちが確かにあった。
だからまずはその純粋な気持ちをとにかく感じてみよう、欲しい感情を味わってみようという視点に切り変えて
当時とにかく自分にあるものを惜しみなく周りに与えることをしてみたかったわたしは
毎日のように身近な人を家に招き続け勝手にご飯を作ってみたりお酒を振る舞ってみたり子守をしてみたり勝手に人の本質に触れる話をしたりした。笑
(最初のきっかけはコロナで里帰り出産ができない友人を里帰りしたがごとく手伝うこと、綺麗事言ってるんじゃなく本当にやりたいなら今まで自分の中でタブーだった人との距離感をなくす事を自分の体と時間を使ってやってみる事、これが始まりだった)
求められていなくともわたしが思う愛というものを目の前の人に与えるという行為を生活の主として本気でしてみたのだ。
それは自分がしたい見たい感じてみたいという言わば自分勝手とも言えるそれだけの理由でだったけど
結果的にあっという間に中心人物のいないコミュニティができた。
みんながふらりと来て自由に遊んで帰る公園のような存在だったようにも思えた。笑
でもなぜかみんながわたしに感謝をしてくれていてわたしも嬉しくてきっとそれ以上にみんなに感謝をしていて
見返りを最初から求めていないその場所には
元々孤独になることを良しとしていて人との距離はむしろとったほうが幸せだと本気で思っていたわたしが恐れていた不快感というものは全くなかった。
自分の世界に境界線というものがなくなる感覚を心の震えとともに本気で味わえた瞬間だった。
それはリアルな人との境界線然り、自分がやりたいと思ってるのにできないことの葛藤や矛盾の原因となる思考の中にある境界線も、ありとあらゆる自分がこの世界で勝手に線引きしていたものすべてを指した。
やりたいこともできないことも元をたどれば純粋な一つの行動なわけで、やりたいことが人を巻き込むことなら今目の前の人にやってみる、たったそれだけのことなんだとシンプルさを覚えたし
それが社会的に価値を持つかどうかなんて、純粋な自分の欲求とは別の話で自分の社会ってほんとに目の前のリアルなものなんだよなあって本気で腹落ちした。(ネット時代に惑わされるな自分!)
去年一年かけて体感した世界は、お店での出来事以上にこっちだったかもしれない。
それどころかこの体験が元々自分の頭で描いていた社会だったりわたしの場合でいうお店の中での嬉しい展開の大切なきっかけとなっている。
なぜなら今はオンラインサロンをやりたいと言う気持ちは微塵もないし
小売業をもっともっと自分の世界観で魂を込めてやっていくこと、そしてこれまで以上に丁寧に本質に触れるヒュッゲもやっていくという、結局表面的には何も変わらないけど、自分の中で確実にその向き合う物事の質が高まったのである。自分のやるべきことが明確になったのは本当にこれが大きい。
もっともっと境界線のない世界で自分らしく生きること
自分の頭の中で線を引きそうになったらいつでもこの時味わった感覚を思い出す。
そうやってもっともっと広く深く自分だけの世界を堪能していきたい、その世界、自分という概念が単なるわたし個人だけではなくそこから広がりを持つ「全て」になっていくと心から意図して。