K最近のわたしは時折キャパオーバーをしてしまってどこかバランスを崩している。

7歳の長男の入院生活はまもなく丸5ヶ月が経とうとしているが、毎日の面会、お世話も慣れを通り越して疲労がみられてきたのが事実だ。

治る病であることが本当に救いではあるのだが、その過程が全く甘くはない、当人ではないわたしですら日々打ちのめされている。

24時間この装具の着用を強いられる彼の生活。歩けないことを想像しただけでも苦しさを感じるのに、それにプラスして、だ。

初めの2ヶ月はこれまでの生活が一変したのもあり、良い意味で新鮮であり、挑戦のような気持ちが強かった。なぜだかわからないけど未来はとてつもなく明るい気がしてならず、毎日地下2階にあってエレベーターが開いた瞬間のなんともいえない薄暗い不気味さを感じる病棟に着いても嫌な気持ちになることなく前向きに頑張れていた。長男も強がっていたのかもしれないが、この歳で大きな自立をみせていた。

3ヶ月目を一言で表すとそれは”実感”だった。いつもの生活の中に長男がいない。それは喪失感に加えて絶望のようにも思えた。病気が発覚したときにわたしの捉え方があまりにフラットだったので周りからは強いね、なんて言われたのはこの感覚が驚くほど抜け落ちていたからかもしれない。病院に行く度にわたしにぶち撒けられる長男からのストレスや罵声も増えた気がする。(わたしも黙っていれば良いものを負けじと対抗してしまう自分の稚拙さにげんなり)この時から色んな感情が爆発して病院からの帰り道、毎日涙が止まらなくなった。

4ヶ月目からは張り詰めていた緊張も解けてきたのかここからが本当に長いな、、と思うようになった。先の見えない渦中というのはなんとも言い難い不快感をもつ。寝かしつけは要らない早く帰ってと言っていた気丈な彼は何処へやら、電気が消えると怖くてたまらないと毎晩すがりつくように弱音を吐きながら眠る彼をなだめる日々。あと何回?あと何回寝たら治るの?と聞かれるたびにこの長すぎる生活をまざまざと体感させられる気がしてげんなりする。長男からの悲観的な言葉とイライラが本当に多くなったのに加えて、次男(2歳)の甘えも激しくなってわたしの心は日々引き裂かれそうになった。

そんな心と現実が混沌としている今だけれど、そんな生活の中でも、わたしにはやりたいことがあって消えない情熱があって、個としての生き方を必死に守ってしまうのだ。それは唯一気丈に生きるための苦肉の策なのかもしれない。過去に何度もしてきた一旦立ち止まるという選択を今しないのは、それが崩れるのを恐れているのに加えて、これまで幾度となくしてきてきっともう十分なのと、考えすぎずにとにかく進むことがこの経験の恩恵である気がしてならないからだと勝手に分析している。

体が引き裂かれるようにたくさんのこと、もの、人から求められる自分(それは自分のど真ん中のハートも含め)、時々自分がわからなくなることもある。泣き出してしまうこともある。本当にこれで良いのか壊れてしまわないか怖くなることもある。だけど立ち止まったところでわたしの心は全くと言っていいほど震えない。生きてる感覚を失う気がして仕方ないのだ。

どうなろうとも進みたい、それが今の自分の正だと感じてならない今。

ここで一つ言えることはわたし自身が病気なのではなくて、それそのものと戦っているのは長男自身であること。わたしがしているのは彼のサポートであり、それは二人三脚であるべきものなのかもしれないけど、でもなんだかわたしの捉え方は大きく彼を包み込むイメージでいる。わたしが守るべきものは他でもないわたし自身の魂が輝いてこそ守れるものであってほしいと自分勝手に理想を描いているだけなのかもしれないけれど。

そのイメージを現実に落とし込むとしたら、ぐちゃぐちゃになりながらも今できることを小さくても精一杯やること。これまで以上に結果への執着ほど足かせになるものはないから、本当に心のままに、だ。そんな自分で今猛烈に頑張って大難を乗り越えようとしている長男と対峙する。

これは今とてつもなく弱っちい自分への戒めであり、エールである。

どんな状況でも心の震えを羅針盤に自分を生きる。こんなぐちゃぐちゃな渦中でもそれが明確なことに、良い意味で自分に降参してしまうのだ。

(色々あるけれど、わたし一人じゃないね。頑張ってる同士はたくさんいる!)

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