一つ前の投稿で土曜日営業を再開したと
繰り返される日々の中に新しいページを開けたかのような気分で記事を書いた、ちょうどその夜
満月でしかも美しい月食だった。
それを眺めながら帰宅した10分後に
次男がリビングで転倒してテーブルに額をぶつけ、盛大に出血した。
眉間にぽっかり穴が空いたような状態で血まみれの姿になった彼を見て悲鳴をあげた、だけど同時に冷静に救急車を呼んでいる自分もいて
なんでこんなことに、という感情よりも
これはもう運命だと思えるくらいの防ぎようがない事故だと否応なしにとらえた。
20分くらいの救急車の中では、出血は自然と止まりその場でできる応急処置はなく
ひたすら泣きわめく息子を抱いて傷(というよりほんとに穴)を見ては涙が止まらず、でも起きたものは仕方ない、絶対大丈夫と気丈な母親の自分でいることができた。
実はこの夏に次男は気管支炎が悪化して初めての救急車を経験していた私たち親子。
その時はちょっと診察して酸素吸入をしてもらえるだけだと思ったら、そのまま次男と引き離され期間未定の入院を余儀無くされた。
しかもあろうことかコロナの緊急事態宣言中だったので付き添い入院も面会もできず
退院するまで全く会えなくなってしまったのだ。
心の準備というものが全くできてない状態でそうなったのもあってか
自分の子供が泣きわめきながらずっと縛り付けられて呼吸器を当てられているんじゃないかとただただ要らぬ妄想を繰り返し
結局丸一週間、感じたことのない不安と恐怖を経験した。
そんなことがあったものだから、救急車に乗る選択を取っている今この瞬間の現実がトラウマ的に苦しくもあって、ひどく落胆していたのも覚えている。
そして病院に到着してからの約30分間、縫合の処置がとられるまでの急患の異様な空間で過ごしている最中
その日の日中に「自分の心から出た行動に優劣はない」と書いた自分の言葉がフラッシュバックして
その瞬間にハッとした。
この最悪と思しき今この瞬間すら
3次元を超えたところからの視点では、最高に嬉しいことと同じくらい稀有な出来事で
嬉しいと心から感じるように、悲しいし辛いと心から感じることもまた優劣はなく同じこと、
意気揚々と宣伝していた明日に控えた土曜日営業のことがこんな時に頭をよぎってしまう冷徹な自分にも
そんなの息をするくらい自然なことで、どんなことも流れるように頭に浮かんで感じて考えて何が悪い、
それを考える自分よりもそれを悪いこととジャッジする自分が何より不要だと思った。
自分から溢れるものをただただ優しく受け入れ、息子を抱えながら「彼の人生もたとえ何が起きようと同じように見守る」という強い意志を自分から感じることができたと同時に
自分自身の人生をただただ見守る、という行為こそが本質であり愛ある行為なのだと、母とは名ばかりの愛の存在でいる自分から気づくことができた。
自分を、そして何かをジャッジしたり後悔したところで事態は変わらない、過去も未来も変わらない。
だったら今気楽でいることがどれだけ重要なことか。
ただただ見守るということがどれだけ尊いことか。
結局傷口を縫合してあっさりと帰宅させられたというオチなのだけど。
(前回が本当に壮絶な別れだったので、ちょっとドラマチックになっていた自分もいた。)
物事に意味を見出す必要はないかもしれないけど(それが自分の心を軽くするなら素敵な方法だ)
どんな経験からも気づきを持つことはきっと尊いことだとわたしは思う。
良いことだけをフラットに受け入れるのは簡単で、そうでないこと、起きて欲しくないことが起きた時も同じくらいフラットに、辛いという感情も喜びの感情くらい貴重であって、感じるためにあるということを今のわたしは知っている。
起きたことを正当化するためでもなんでもなく、人生なんてそんなもんだって思うようになった。
母は強しとはよく言ったもんだけど自分じゃないのに自分くらい大切なもの、自分の手じゃどうしようもない不可抗力なものをもってみて
いろんな感情、感覚の景色を見せてもらっているよ。