Kここ最近一人の時は

どこへ行くわけでもなく敢えて小難しい本を片手に海の前に座って読書をして

すぐにどこかに意識を飛ばして(すなわち大して読んでない)

これが瞑想なのか睡眠なのかわからない状態を過ごすことにものすごく快感をおぼえている。

近くの海辺りは西を向いてるから、朝にそこで過ごす時間が涼しくてとても心地が良い。

(ちなみに言うと本を持っていないとこの意識状態には到達できない、という実験結果もある。瞑想をしに手ぶらで行くとできなかったw)

そんな感じでここ最近は自分の内に向かうことが以前よりも多くなった。

感じることを大切にしているのと同じくらい

わたしは自分の思考の力も大切にしていて、果てし無く思考の旅に出ることも良しとしている。

私の今世のギフトは感性よりも思考だと思っている。

一時期は思考ばかりしてはダメだ、思考の左脳よりも感性の右脳が大切なんだと思い悩んでいた時もあったけど(めちゃくちゃ思考してるw)

だからこそ思考を止めてただただ感じることの大切さも学ぶのだろうし

陰陽的な、感性あっての思考、逆も然り思考あっての感性で

二つで一つの大きなものになると思っている。

結局どっちもあるのよ。

ただ存在してるものにどれだけ意味付けをして制限をかけてきたんだろう、ワタシという人間は。

だけどその捉え方、扱い方が年を重ねるにつれだんだん変わってきていて

面白いな、これこそ人生の醍醐味だなって嬉しくなる。

どんどんこれまで制限を持っていたものを許容できて、本当に存在するもの全てになんでもどうぞ〜それ良いね〜ってな感じになってきている体感覚がある。

34歳、ちょうど人生の真ん中あたりだろうか(どうなんだろうか、知らんわってな)

意識せずとも何事もバランス、中庸に向かっている

そんな気がしている。

すぐ極端にいってしまう、でもよくよくこれまでを振り返ってみたらその極端の反対にもきちんと私は出かけたなと気づいた。

バランス、中庸

無意識にでもこの状態に向かうことが年を取ることなのかもしれないけど

そこから何が生まれるのかは謎。

今は何を目指すわけでもなくなってしまったけど

その謎の境地を見てみたい、人智を超えたサムシングに出会いたいとすごく思う。

物理的な目標はなくても、自分のど真ん中の境地は目指しているんだ。

そしてめちゃくちゃ大きな視点でみたときに、今世はどうにでもなれの極端をきっと見たいんだと思う。

(今世なんて大元の魂から見たらほんの一部分でしかないものね)

(タイトル:オチのないわたしの頭の中)