自然の中に一人静かに身を置く。

深呼吸を繰り返し、五感のどこか一つを閉じてみる。

この場合、私は視覚を閉じることが多い。

とある朝のこと、丁寧に自分に問い「自然の中にいたい」と始業前に持った海の前での自分時間。

それはすなわち瞑想というスタイルになるのかもしれないが、私にとってのそれは「感の限定」で、自分自身を静め自然の一部に溶け戻るという行為である。

目を開けた世界は自分とそれ以外のものに明確な境界線を感じるが、そっと瞼を閉じると果てなく自分の世界である。それはまるで内側から拡がり出る力が外側の存在を掻き消していくかのようで。

頭の中で考えていることが飛び飛びで聴こえてくる。なんと忙しい音たち、だけどそれらは全部自分であると認識できる。そんなことを感じながらそれらを垂れ流し続けていると「ああ、私は何者でもない自然そのものなのだ」と合点する瞬間が訪れ、今度は外側からの力が内側を掻き消すかのように流れ込んでくる。ただただそうなのだと言葉の感覚が消えゆく。

そうして外も内もなにもなくなったとき、ジーンとしたりフアーーー(低め)と言う深く力強い振動のような感覚が腹の底から全身へと繰り返される。これがたまらなく気持ち良くて、気づけば浜辺にいることすら忘れ人の気配があることにも気づかないほど没入する。

私は人間という名の自然で在りたい。

ここ最近そんなことを強く思う。人間として私は頭や心の中にあるものを言語化することが好きだけど、言葉にするということは物事を具体的で限定的にすることでもありどこか排他的な要素も持ち合わせるように思う。だけど私は表現しきれないそれ以外のものの存在を自分の中できちんと在るものにしたくて。

だからこそ何でもかんでも言葉にせずにそのまま感じるという抽象的な行為、感覚をもつことは今の私にとってすごく重要なのである。それこそが自然そのものの在り方であると信じているし、この具体から抽象へ振り切りにいく行為があってはじめて自分を自然の存在であると感じきれるのだと思う。

皮肉なことにこれもまた言語化というパラドックスではあるが、歪な形をしたり二元論的に捉えてしまうことをひとつ丸ごとに捉えたりと行ったり来たりすることが私らしいのだと受け入れたい。

そうやって揺れながらしなりながらも、人間である自分を山や木々、花となんら違わぬ自然の一つの存在だと優しく捉え、悠然に生きたいのである。