「お母さん、そうちゃん今日からリハビリで歩いてますよ!」
寝耳に水とはこのことか、と言わんばかりに看護師さんからのこの一言が、今日も淡々と面会に来たばかりの私に衝撃を与えた。
ペルテス病というものを患い、長男が歩くことを禁止され入院生活が始まってから2年5ヶ月目のこと。そもそもこの入院は長くて2年と宣告されていた。しかし一向に骨が再生する様子はなく、本当に治るのか?途中発熱を繰り返していた時期もあってもしかして全然違う病気なんじゃ、、?なんてありもしない想像をして苦しくなったことも数えきれないほどあった。同じ病気の子は我が子を飛び越しみんな退院していった。
そして約束の2年が過ぎた時、医師からは「さらにあと1年の入院」と終わりが見えない信じることができない新たなゴールテープを言い渡され、家族全員言葉にならない感情に苛まれた。
(入院して3度目の夏)
期待しないこと比べないこと、はこの経験を通して一番自分の教訓になったことだ。例えば同じ病気でも1年2ヶ月で歩けるようになる子もいれば長い子でも1年8ヶ月とか。2年間も入院していた人を私たちは知らない中でそれでも終わりがあることに安堵はしていた。だけどその終わりすらもしかしたらないのかもしれない、何かに期待してそれが手に入らないこと、そして周りはこうなのに自分達が異常さを感じてしまうほど治りが遅く置いていかれるような比較思考になった時、訳もわからず悲しくなり苦しくなった。
(同じ病気で同い年、発症のタイミングも全部同じで初期からずーっと共にしてきた親友が先に歩きはじめた時。毎日手を繋いでお散歩に行こうって誘ってくれたね。お友達が歩き出すとそれは同時にここからいなくなるという意味にもなる)
だからこそ3年目に突入した時に家族で誓ったことは、より一層目の前の生活に目を向けこの状況をとことん楽しむことだった。治ることはもちろん信じるけれどそこに固執はしないし意識もしない。今のこの環境でしか得られないものを改めて整理して、今嬉しい楽しいと感じるものを目一杯喜び、今さみしい悲しい辛いと感じる感情をとことん味わい尽くす。期待しない中にある、リアルなものは想像以上に気楽さを持ちそして面白いのだ。
そんな感じでただただ淡々と通い続けていた病院生活。(こうやって書いているとこれは母親の私の視点であって、長男のそれはまた全然違うものであることを書き添えておく)何も期待しない、何とも比べない、先のことを考え過ぎずに今日を大切に生きることは私たちの唯一の光だった。
そんな在り方、意識で月日が5ヶ月ほど過ぎた時突如として「歩ける」「治る」という現象が私たちの目の前にやってきた。兆候があったわけではなかったので医師からも全く予告をされておらず、本当に寝耳に水状態だった今回の出来事。入院当初、この日は当たり前に来るものだと確かに信じていたのに、ここまで長くなると奇跡のような産物に感じてしまって喜びを超えてジーンと感慨深くなる。有難いという文字をそのまま体感しているような、深いところで静かに感じ続けられ消えることがない不思議な感覚。
想像することすらやめた長男が一人で立って歩いている姿、それがとてつもなく愛おしくて言葉にできないほどに嬉しい。先週末自宅に帰った際彼が海辺を歩いている姿を見た時、「終わることを感じて良いのだな」と、立派なことを言いながらもただただ心を守るために強がっていたであろう自分の思考に優しさを持つことができた。
まだリハビリが続いているので入院生活は続いているが9月中には退院する予定だ。残りのこの生活を1日1日噛み締めながら、そしてここで学んだ在り方、経験、出会いをこれからの生活でも忘れることなく大切に過ごしていく。
入院してから初めて息子の歩く姿を見た日、外に出ると不思議なことに雲が脚そのものだった。やっと歩けたね頑張ったねって世界が言ってくれているよう。本当に本当に嬉しいね。