気楽さを持った11月。

何をしていたか振り返ってみると、時間問わず没頭して紙に文字を書き綴り続けた。営業中も、朝も夜も、隙あらば着席する。そしてとことん「書く」に没頭してみたいという自分の欲求を許し続けた。

(私の定位置)

自分の深いところに潜る作業は、自分の話をようやく聞いてもらえたと喜ぶもう一人の自分に出会える優しい感覚をもたらす。

(スケジュールと一緒に純正のノートを入れてたところをシステム手帳に進化させた。リフィルだとうまく書いてやろうという気がなくなるし補充し続けられるので気楽に無限に書けるようになった)

日々の出来事を考察したり、感情が動いた時に何をどう感じたのか問い直してみたり、あり得ないような未来を妄想したりと、ちょっと飲んで語ろうよ!と友に声をかけそうな時に紙に向かって話しかけてみる。こんなこと言っちゃいけないよな、は無しにして何でも言語化してみる。際限なく自分の頭の中を垂れ流してみる。

書くことが浮かばない時には何となく気になる本を読む。そうするとまた自分の意見だったり、好きな一文に突き動かされて新たな自分の言葉が生まれたりする。

万年筆のインクが紙の上に乗っていく光景もたまらなく快感だ。文字でいっぱいになったページを眺めることも。とても生産的な行動とは言えないが、私の心や深い部分は劇的に動いている、それを感じたいし見えないものこそ動かしたい。

あまりにも内向的になり過ぎていると、外への表現がわからなくなる。だけど何だかそれで良いとも思えた。物事は瞬間瞬間で独立していて、過去と未来をうまく繋げようとしなくとも、後から気づいたら「ああ、あれは繋がっていたのか」と発見するくらいでいい。綺麗に繋げようとする意識は打算的で純粋性に欠ける。

没頭の果てと言うには浅いが、ひとしきり気の済むとこまでやりきってみたら、フワッと飽きる瞬間があって今度はお店の空間に目がいきだした。うつろいゆく自分のアンテナを面白がって追ってみると、自由なんだけど、自分の核にあるものを順に巡っているような輪郭がぼやけた一貫性を感じる。

さて、取り留めがない文章であるのはそんな風に結論や目的がないことにずっと身を置いていたからだと言い訳したい。今月の自分は終始こんな感じだったのだから。

ただひたすらにそれをやる。物事を刹那的にとらえる。

誰に認められなくとも自分の心の感覚を頼りに生きてみたい、生活に飲まれると忘れてしまいがちなのだがこれがいつだって私の深いところにあり続ける願いであり喜びだ。